礼拝説教要旨(2004.10.10)   
 主の道に歩め (列王記第二 21:1〜26)

 主に祈ることにおいて率直であったヒゼキヤは、主の恵みにより生かされていた。悔い改めることにも率直であった彼は、主に忠実な王として名を残し、民に惜しまれて世を去って行った。そのヒゼキヤの後を継いだのはマナセであった。すると王国は一転、ヒゼキヤとは全く違う道を歩み出したのであった。

1、マナセの治世の特長は、父ヒゼキヤが成した改革を台無しにしたことにあった。なぜそんなことをしたのかと思うほど、彼は主の前に悪を行った。ヒゼキヤの時代にようやく打ち壊された高き所を築き直し、バアルの祭壇を立て、アシェラ像を造り、天の万象に仕えただけでなく、主の宮に天の万象のために祭壇を築いたのである。(2〜5節)

 主のあわれみによって導かれた民の王が、一代でそこまで背信するとはどうしてなのか。父ヒゼキヤに対する反抗心があったのだろうか。その一因は、ヒゼキヤの改革に不満のあった人々がマナセを突き動かしたことである。急激な改革を快く思わなかった者たちが、ここぞとばかり復権し、マナセを主の嫌われることへと走らせたのである。彼らは、主に頼るよりはアッシリヤに隷属することをよしとした。こうして子どもを火の中をくぐらせることや、卜占、まじない、霊媒、口寄せが行われ、主の怒りを引き起こしていた。(6節)

 マナセ自身の問題は、主の宮についての思いが薄れ、その宮こそが主の臨在の場所、そこで主にお会いする所との認識が忘れ去られていたことである。主がソロモンに約束されたこと、またモーセに命じておられた戒めを忘れていたのである。知らなかったのではない。神の民はモーセを通して命じられた主に従う道、すなわち律法やソロモンに示された主の宮についての約束は代々に渡って伝えられていたのである。マナセは分かっていたにも拘らず、これに聞き従わず、人々をも迷わせて主に背かせていたのである。(7〜9節)

2、主は預言者を遣わしてマナセに裁きを告げておられた。その預言者たちとはエレミヤやハバククと考えられる。(イザヤについてはマナセの迫害によって殺されたというユダヤ教の伝説がある。)もはやユダ王国の滅亡も免れることは出来なかった。その裁きの日は全くの悲惨に満ち、容赦なく民は敵の手に渡されるという。マナセの罪はかくも恐ろしく、深いものであった。(10〜15節)

 裁きを宣告されたマナセは悔い改めたのだろうか。列王記第二は一切触れていない。しかし歴代誌第二によると、聞き従わなかったマナセがアッシリヤの王の将軍たちによって捕らえられ、バビロンに連れて行かれた時、ようやく心を低くしたと記されている。さすがの彼も主に祈り、主はその祈りを聞いて下さったのである。彼は神に立ち返り、神は彼をエルサレムに戻しておられる。(歴代誌第二33:10〜17)

 なぜ列王記はこのことを記さないのだろうか。その悔い改めはマナセの生涯においては、小さなことと言うのだろうか。残念ながら事実はその通りで、マナセの晩年に主に立ち返る時があったにも拘らず、国中に広がった悪弊は、少々のことでは取り除けない状態となっていたのである。列王記はそのことを強調するかのように、マナセの祈りや遜りには触れなかったと考えられる。そして時代はマナセの子アモンに移って行った。(16〜18節)

 3、アモンは「その父マナセが行ったように、主の目の前に悪を行った。彼は、父の歩んだすべての道に歩み、父が仕えた偶像に仕え、それらを拝み、彼の父祖の神、主を捨てて、主の道に歩もうとはしなかた。」ヒゼキヤの改革を捨てたマナセに習ったアモンは、父が晩年遜ったことさえ気づかないまま、ますます罪に走ったというのである。(20〜22節、歴代第二33:23)

 「主を捨てて、主の道に歩もうとはしなかった」というアモンの姿勢は何を意味しているのだろうか。実はここにも、「主の道に歩む」べきことをアモンは知っていたことが暗示されている。すなわち神の民は、一貫して「主の道に歩め」との戒めを知らされ、心に刻んで生きるように導かれていたのである。モーセにより明らかにされた神の戒めは十戒に明らかにされ、民はこれを覚えて生きることを求められていた。彼は知らなかったのではなく、知っていながら戒めに従おうとはしなかったのであった。それゆえその罪は大きかった。

 アモンは家来たちによって殺され、謀反を起こした家来たちは、民衆によって打ち殺された。神は、この国に主を恐れる民をなお残しておられた。「民衆」すなわち「アム・ハーアーレッツ」(※11:14では「一般の人々」 )が主を恐れる信仰を持ちつつ、新しい王の立てられるのを期待して立ち上がっていた。その民衆が立てたアモンの子ヨシヤは、「主の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」と記される王となったのである。(22:2)

<結び> 主の道に歩むこと、主が命じられた全ての律法を守り行って生きること、それは神の民イスラエルだけでなく、本来全ての人に求められている。私たちは改めてそのことを覚えたい。生きておられる神を恐れ、この神の戒めを守ることを生涯の課題と心に刻ことが大切である。

 主なる神は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と命じておられる。また「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・・・」と。そして、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」「あなたの父と母を敬え。」「殺してはならない。・・・・」と、十の戒めを命じられたのであった。(出エジプト20:1〜17)

 私たちは今思いを新たにして、主の道に歩むことを心に決心し、主に従う心を固くしていただこうではないか。と同時に、自分ではこれを守り行えないことを認めて、十字架の主キリストを仰ぎ見る信仰を固くしていただきたい。キリストは「主の道」を共に歩んで下さる確かな導き手である。

 私たちの心からの願いは、生涯変わることなく主の道を歩みたいということではないだろうか。また同じ主に従う道を家族や教会の兄弟姉妹たちと共に歩み続けたいと願っている。一人一人の真心からの信仰が神に喜ばれるのである。形を取り繕ったり、背伸びをしたりすることなく、率直に祈り、罪を犯したなら、悔い改めるのにためらうことなく、主の前に遜る者となれるよう祈りたいものである。主はご自身の真実によって、どこにいても、どんな状況にあっても私たちを必ず守り導いて下さるからである。