礼拝説教要旨(2004. 7.25)   
主の目にすべてあらわ (列王記第二 15:1〜38)   

 北イスラエルの王ヤロブアム二世の治世の半ば、南ユダ王国はアマツヤの子アザルヤが王となった。別の名は「ウジヤ」で「ウジヤ王」としての方が良く知られている。16歳で王となり、52年間治めたとされているが、父アマツヤとの共同統治の時代があったと考えられている。(後にマナセが55年間王となったことに次ぐ長期に渡る治世である。)

1、列王記第二15章は、このウジヤについて少し触れた後、北王国でヤロブアムの子ゼカリヤが6か月間、シャルムが1か月間、メナヘムが10年間、ペカフヤが2年間、ペカが20年間王となったこと、そして南王国はウジヤからヨタムに王位が継承されていったことを記している。

 その記述の仕方は、それぞれ決まり文句のように、「主の目にかなうことを行った。ただし、・・・・」と言われる南王国の王と、「彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった」と言われる北王国の王に分かれている。(シャルムについては1か月の統治で、何も言われていない。)

 北はヤロブアム二世の時代、国として栄えていながら主に立ち返る悔い改めを先送りした結果、いよいよ滅亡へと向かっていたのに対し、南は、なお主のあわれみによって祝福され、不完全ではあっても、主を呼ぶ者を必ず守ると、主ご自身はメッセージを発し続けておられたのである。ウジヤに関して言うならば、ヨアシュ、アマツヤ、ウジヤ、ヨタムと、四代に渡って主を恐れる信仰が受け継がれていたことになる。

2、さてそのウジヤ王であるが、5節で突然のように、「主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツアラアトに冒された者となり、隔ての家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、この国の人々をさばいていた。」と記されている。これは「高き所を取り除かなかった」ことに対する裁きではなかった。当時の人々には周知の出来事があったのである。

 ウジヤには信仰の導き手となるゼカリヤという人物がいた。そのゼカリヤの教えに従い、神を求めていた間、神は彼を栄えさせておられた。国の繁栄は国土の拡大や交易の広がり等となって表れていた。(歴代第二26:1〜15)ところが、その絶頂の時に「彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた」のであった。
(26:16) ※アマツヤのように(14:10〜12)

彼は、「彼の神、主に対して不信の罪を犯した。」 彼は神殿で香をたこうとしたのである。その務めは祭司だけに許されていたもので、祭司たちの制止を聞かず、怒りに任せ、手に香炉を取って香をたこうとして主に打たれたのであった。彼の額にツアラアトが現れ、そこにいた祭司たち全員が、「主が彼を打たれたからである」との事実を知ることとなった。ウジヤは、高ぶりの罪を犯し、死ぬ日まで隔ての家に住むこととなり、主の宮からは絶たれてしまった。自らの罪を片時も忘れることなく心に刻んで生きるようにと。(26:17〜21節)

3、北イスラエル王国は、アッシリヤによってアラムの脅威が去ったことにより繁栄を得ていたが、その繁栄は主のあわれみによるものとは考えなかった。主は滅びに向かう国に、もう一度チャンスを与えておられたが、権力闘争を繰り返し、ますますアッシリヤに頼る道を選び取っていた。その行為はかえって国力を弱めることになり、ついにはペカの時代、イスラエルの民がアッシリヤに捕囚される悲劇に見舞われることになった。(19〜20、29節)

 また南ユダ王国は、ヨタムの時代、ウジヤ王の繁栄の名残りを保ちながらであったが、主は王と民に向かって、真に頼るべきは神、主であることを気づかせようと働きかけておられた。すでに弱くなったとは言え、アラムの王レツインがイスラエルの王ペカと手を組んでユダを攻め始めていたが、そのような時こそ、主の名を呼ぶようにと主は預言者を遣わしておられたのである。(37節)

 預言者イザヤは、ウジヤ王の死んだ年に預言者として主によって召されていた。(イザヤ6:1) 時代が激しく揺れ動く時、主は全てのことを見ておられるのである。起こり来る一切の事柄はもちろんのこと、そこで生きている人々の心の中の全てを見通しておられる。背く者に「わたしに返れ!」と手を差し伸べ、み声をかけておられた。主を呼ぶ者には必ず答え、助けを与えておられたのである。けれども背きを止めないなら、警告を発し、それでも頑なに拒むなら、裁きを下しておられたのである。

<結び> 私たちは神の民イスラエル(南北の王国)の歴史から、また王たちの姿から何を学ぶことが出来るだろうか。長い歴史の中で、事柄は決して単純ではない。一面的に善し悪しを言うことは控えなければならない。すなわち、主の目にかなう王であっても、誤りを犯しているのに対して、主の目の前に悪を行った王であっても、主に用いられ、国は祝福されることがあるからである。

 肝心なことは、主の目に全ての事柄は明かであり、あらわになっているという事実である。人は本当の意味で主を恐れて生きているかどうか、そのことが問われるのである。一時的また表面的に善し悪しを云々するより、根本の所で神に頼っているのか、それとも人を頼っているのか、全幅の信頼を主なる神に寄せているのか、そのような信仰が問われているのである。

 ※説教の準備中、木曜日(22日)の夕刊一面の記事は象徴的であった。米国のアーミテージ国務副長官が「日米同盟にとって、憲法9条は妨げである」と言ったとのこと。憲法を改正するなら、9条を改正して武力行使が出来るようにせよと発言したというのである。

 クリスチャンであろうとなかろうと、本当に頼るべきはだれなのか、今日本にいる全ての人が自分の心に問うように、真の神、主は語りかけておられるのではないだろうか。今この時代も全てのことは、主の目にあらわである。だからと言って、すぐ右に行け!いや左だ!!というように道を示して下さるわけではない。むしろ私たち一人一人がよくよく考え、祈り、主に頼ることを本気で選び取るように待っていて下さるのである。

 聖書の言葉を心に刻み、聖霊に導かれて祈り、そのようにして自分の進む道を主に問いつつ歩み続けること、そのことを主は望んでおられるのである。そのような意味で最後に箴言の言葉を、私たちに多くのことを教えてくれるものとして再確認し、心に刻みたい。
 =箴言16:1以下=