礼拝説教要旨(2004. 6. 13)    
王の叫び (列王記第二 13:10〜25)       

 北イスラエル王国のエホアハズ王はヤロブアムの罪を犯し続け、それを止めないで主の怒りを招いていた。アラムの国の脅威にさらされていたのである。そのような罪の中にあって、エホアハズが主に願った時、主はこれを聞き入れられた。ところが、それにも拘らず、王も民もなお罪を止めないまま国力が弱まり、王の死を迎え、代わってヨアシュが王となった。

1、北イスラエル王国は、もはや神の裁きに向かって突き進むばかりであった。ヨアシュも父エホアハズと同じく、「主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けた」からである。(11節)

 国が弱体化する時、拠り所をどこに見出してよいのか分からなくなるという状況だったのであろう。主に頼って助けをいただきながら、生き方を根底から変えることはせず、国の形態を取り繕うことに必死になっていたのかも知れない。恐らく民をまとめるためには、目に見えない真の神よりも、目に見える金の子牛は分かり易かったと考えられる。

 しかし、もちろんヨアシュは真の神を知らないわけではなかった。預言者のエリヤやエリシャのことを知っていた。アハブ王の時代の出来事、特にエリヤとバアルの預言者の対決のこと、またエリヤの死後エリシャがいてイスラエルは大いに助けられたことなど、よくよく知っていたものの、神、主に頼ることを潔しとはしなかったのである。

2、そのようなヨアシュが主を求め、主の助けを求めてエリシャのもとにやって来たことがあった。「エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。」(14節) 彼はエリシャの上に泣き伏して、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んだのであった。

 イスラエルの国がアラムによって脅かされ、弱くなるばかりの時、預言者エリシャの死の時が迫っていた。ヨアシュは見舞うためにエリシャのもとに来たが、ただ見舞うだけでなく、アラムと対決するにはエリシャの助けが必要と懇願していたのである。彼が泣き伏して叫んだ言葉は、エリヤの死に際してエリシャが叫んだ言葉と同じで、「あなたが信じる神の力を私も信じます。あなたと同じ道を歩みます。力を与えて下さい・・・。」というような祈りが込められた叫びであった。(※2:12)

 ヨアシュは自分の弱さを認めたからこそ、エリシャのもとに泣き伏して叫んだのである。それまでは主に頼ることなく、まして預言者のもとを訪ねることもなく強がっていたのであるが、もはや他に頼るすべもなく、エリシャを主の預言者と認めて助けを呼び求めたのでる。そして主に頼ろうとするヨアシュの心の内を認めたので、エリシャは主の助けを告げるのである。(15節以下)

3、エリシャがヨアシュに弓と矢を取るように命じたこと、弓に手をかけさせ、東側の窓をあけて矢を射させたこと、そして「主の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」と告げたことの全ては、主がアラムに対する勝利をヨアシュに与えるとの約束のしるしであった。エリシャの手が王の手の上にのせられているのは、エリシャが王を支えること、すなわち主の助けの手が添えられることを示していた。※東側の窓:アラムの方角を示す。(16〜17節)
 エリシャはなおも王に矢を取り、「それで地面を打ちなさい」と命じたが、王は三回打って、それで止めたので、「あなたは、五回、六回、打つべきだった。・・・」と王に向かって怒りを表した。ヨアシュには主の勝利を徹底的に求める、そんな姿勢が感じられなかったからである。

 神は全き勝利を備えておられたにも拘らず、王は当面の勝利だけを求めていたということが明かとなり、エリシャは「今は三度だけアラムを打つことになろう。」と宣告した。結局この宣告の通り、ヨアシュは三度アラムを打ち破って、イスラエルの町々を取り返したが、アラムの脅威が去ることはなかった。(19節、25節)

 神が完全な勝利を備えておられたにも拘らず、人が目の前の勝利だけで満足してしまうという皮肉な結末は、まことに残念である。主の助けを求めて叫ぶなら、心の底からの叫び声をあげ、主の勝利を余すことなく受ける者となりたいものである。

<結び> 私たちが主の勝利を余すことなく受けるにはどうすればよいのだろうか。主が備えて下さる全き道を歩むにはどうすればよいのか・・・。

 先ず第一歩は、ヨアシュのように神に向かって助けを求め、叫び声をあげることである。祈りによって神に近づくこと。この時、弱さを認め、絶望して神に向かうか否かは、求めの切実さに表れるものである。強がっている間は祈りも真実なものにはなり得ない。けれども主に背いていた王でも、主に求め、叫ぶなら、主はこれを聞いて下さるのである。

 せっかく主の勝利に与っていながら、十分にその祝福に与りきれなかったヨアシュの問題は、信仰の一貫性がなかったことにあると考えられる。主を信じていなかったわけではなく、主を信じつつも、金の子牛礼拝も行い続けていた。主に背いているとの自覚は、余りないまま、王の務めを果たすのに懸命だったのかもしれない。私たちも主を信じていながら、日々の生活や務めに追われる時、つい目先の問題解決を第一にしているなら、同じようなワナに陥ると心しなければならない。

 生涯変わらずに主イエスを信じ、この主に従う歩みが導かれるように、何を大切にし、何を選び取って生きるか、注意深く歩みたい。何よりも祈りを聞いて下さる神がおられることは幸いである。この神は私たちに最善を成し、困難を打ち破って前進することが出来るように、勝利を導いて下さる方である。目の前にある問題の解決はもちろん、将来に渡って完全な勝利を備えていて下さるのが、主イエスを救い主として遣わして下さった真の神である。この主に祈れること、主に叫んで助けを求められること、それは私たちにとって大きな力なのである。